迎祥橋は、汝家橋ともいう。明正統六年(1441)に建造された。険峻と言えば、黎里の迎祥橋は必ずその中にある一つになっている。
新豊橋は、清風橋ともいう。梨花街と西新街を跨って、早期の建造時期も弁別できず、明嘉靖十六年に修繕、光緒十一年に再修繕され、花崗岩材質を採用し、梁式三孔になっている。記載によると、こ...
望平橋は黎里古鎮の西南方向、接桂橋の西側に約300米離れた所にあり、南北方向で走っており、単孔石梁橋である。橋梁石は既にセメント構造に変更され、北堍の東側に望平橋の彫刻石があり、建造年...
望恩橋は絶対的に黎里において歴史、画に入れる橋であり、造型や気勢、それから歴史にも係わらず、これは黎里の青龍橋と並立することができる。
梯雲橋は、唐橋ともいう。この橋の種類、材質、構造、体量は全く進登橋と同様で、まるで双子のようである。相違点としてこの橋の北側に引橋がある事に対して橋の南側に引橋がない。北堍の西側に...
秋禊橋は叽咕橋ともいう。旧町西北部秋禊道院の傍にあり、「定字型」市の河北栅出口を跨って、東西方向に走っている三孔梁式石板橋である。
青龍橋は相家橋ともいう。平楼街と九南街を跨って、明成化十八年に建造され、乾隆十八年に再築、道光二十九年に建て直され、武康石、青石と花岗石という三種類の石材料を採用し、橋面に輪廻の飾...
二つの市河の合流場所は明月橋である。明月橋は、楊家橋とのいう。故郷の百姓は石橋の竣工、施、楊二大家族の仲直りのために喜んで、発音を以て新築した石橋を「民悦橋」と名づけた。
廟橋、大陵橋ともいう。黎里古鎮横市河の西部、進登橋の西側から200メートル離れた場所にあり、南北方向へ走行し、単孔石梁橋である。初期建造時期がもう追及できず、明成化十三年に道士の呉雲山...
梅蘭橋は金梅蘭ともいう。黎里古鎮の横市河の東側(東栅)の九成匯にある。
黎里鎮東側にある攬橋蕩景勝地であり、橋全体の長は120メートル、幅32メートルであり、気勢が非凡になっている。古鎮特色のある風雨廊の全長は140メートル、一番広い場所の幅は9メートルになって...
進登橋とは、夏家橋ともいう。市河中段に中心街と建新街を横断し、南北方向の単孔梁式石橋は花崗岩で積重ねられている。橋脚の下方に左右でそれぞれ一つの方孔があり、洪水時期に水を漏らして洪...
本名は太平橋という。最初の建造時期が追究できず、嘉靖年間に道士の楊浩然より再築、康熙年間の郷里人より再築された。1972年にセメント製二曲メガネ橋に改造された。
清代康熙五十一年に里人の陳永年より建造され、「放生橋」と呼ばれている。この橋の偉大は、一つとして高、もう一つは奇特に体現されている。
鮑家橋は本名が里仁橋、原石橋との俗称がある。
周賜福弄の名前は周元理より由来している。直隶総督、工部尚書の周元理(1705-1782)は役員を担任して36年間が経ち、まじめにこつこつとして、不正・収賄をせずに公の務めをして、乾隆の信用を...
黎里の建新街にある中金家弄に入ると、弄堂の壁が長い間に修理していないことにより少し斜めになって露天弄堂の地面に青苔がいっぱい生えており、その老屋は色がまだらで脱落している壁体に暗い...
中丁家弄の東側に西洋式建築1棟があり、中国における初代映画俳優の殷明珠より建造された。
新蒯家弄とは黎里における四番目の氏名――蒯家の二番目建築群落であり、黎里に稀にない「非」字型弄堂である。弄の西側は蒯氏家族で、弄の東側は蒯賀蓀の婿である張曜家族である。
西徐家弄から清代の文学夫婦二人が走り出した。夫は乾隆時期における翰林院待詔の徐達源、著作から出身し、最も知られているのは彼は本町における初めての『黎里誌』を編集した。